ENTERTAINER
2025をつくる人たち

忍足おしだり 亜希子あきこさん

ろう俳優

忍足 亜希子(ろう俳優)|“ろう者を伝える”という覚悟が、私を俳優にした

2025.08.05

1999年に公開された映画『アイ・ラヴ・ユー』で、日本初のろう者の主演女優としてスクリーンデビュー。
以来、映画をはじめテレビやCM、舞台など、ろう俳優としての活躍の場を切り拓いてきた忍足亜希子。
「ろう者のリアルな表現を作品に反映させたい」と語るまっすぐな眼差しからは、柔らかさの中にも揺るぎない信念が感じられた。

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“この家に生まれたくなかった”と言われて

――忍足さんの出演作といえば、2024年公開の映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が記憶に新しいですね。いくつかの映画賞で助演女優賞を受賞され、多くの人の心に響いた作品となりましたが、演じる上で大切にされたのはどんなことですか?

忍足 この作品は、きこえない両親のもとに生まれたコーダの少年の成長や葛藤、親子の絆を描いた物語です。私が演じたのはその少年の母親でしたが、実生活でも中学2年生になる娘がいます。彼女も、コーダです。劇中では息子をもつ母親という設定でしたが、反抗期の息子とのやり取りのシーンなどは、娘との日常に重なるものがあって、とても感情を揺さぶられました。

――実生活が役づくりにも活きたんですね。

忍足 そうですね。とくに印象的だったのは、吉沢亮さん演じる中学生の息子に、「こんな家に生まれたくなかった!」と強い口調で言われるシーンです。あの台詞が胸に突き刺さって、本当にショックで、鳥肌が立つほどで・・・。そうしたリアルな感情を包み隠さず、そのまま表情に出すことを心がけていました。呉美保監督からも「自然に演じてほしい」と言われていたので、反抗期の子をもつ母親としての悩みや葛藤、迷いといった感情を、あえてつくり込まず、できるだけ自然に演じることを大切にしていましたね。

――あのシーンは、観ているこちらも込み上げてくるものがありました。一方で、忍足さんのコミカルな演技もとてもチャーミングで素敵でした!

忍足 ありがとうございます。実は監督からも、撮影現場でよく「忍足さんて天然ボケだよね」といじられていたんです(笑)。「そこがおもしろくていいよね」って言ってくださっていました。あの空気感のおかげで、シリアスなシーンとのギャップも自然に出せたのかもしれません。

“自然体で演じた母親役”に、多くの称賛が集まった

 

北海道→横浜→名古屋→横浜
転校とともに過ごした多感な時期

――忍足さんは子供の頃、どんなお子さんでしたか?

忍足 自分で言うのもなんですが、明るくておもしろい子供だったと思います。毎週土曜日の夜8時から放送されていた、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』というコント番組が大好きでした。コントなので身振りが多くてわかりやすかったですし、何よりおもしろかったんです。よく真似をして、家族を笑わせていました(笑)。

――ひょうきんなお子さんだったんですね。きこえないことは、いつ頃わかったのですか?

忍足 4歳の頃です。当時、私たち家族は北海道に住んでいました。両親の地元である神奈川県横浜市でずっと暮らしていたのですが、父の転勤で北海道の千歳市に引っ越すことになり、そこで私が生まれました。4歳のときに、両親が私を呼んでも振り向かないことに異変を感じて、病院に連れて行ったそうです。検査の結果、ろうであることがわかりました。周りの子供より言葉の発達が少し遅れているなとは思っていたようなのですが、個人差があるものですし、それまでは両親もあまり気にしていなかったようです。

――学校は、横浜市のろう学校に通われていますよね?

忍足 そうですね。そのまま北海道で子育てをする案もあったそうですが、北海道は広いので、ろう学校に行くにも電車やバスを乗り継いだりと、とにかく遠いんです。だから両親も考えた末、地元に帰ろうと決意したようです。
4歳で北海道から横浜に引っ越して、幼稚部の2年生から小学部の6年生まで横浜市立聾学校(現・横浜市立ろう特別支援学校)に通いました。神奈川県にはろう学校が4つあるのですが、横浜の学校は口話教育に特に力を入れていたので、言葉を覚えるにはいい環境だろうと考えて決めたそうです。最初は、自分が「ろう者」であることをあまり意識していなかったのですが、小学4年生のとき、ふと「どうしてこんなに口話の練習を頑張らなくてはいけないんだろう」と思い始めて、葛藤が生まれたのを覚えています。

ドリフターズが大好きでよく真似をしていた子供時代
(写真左)

――幼稚部からは、ずっと横浜で過ごされていたんですか?

忍足 それが中学1年生のときに、また父の転勤で今度は名古屋に引っ越したんです。高校1年生の夏まで、名古屋のろう学校に通いました。両親は転校のことを心配して気遣ってくれましたが、私はむしろ「やった! 新しい友達ができる!」という楽しみやワクワク感の方が大きかったですね。最初の頃は転校生あるあるで、「あんたどっから来たの?」と言われて小競り合いに発展することもありましたが・・・(笑)。名古屋のろう学校は手話が盛んで、勉強もすべて手話で教えてくれました。そうした横浜の学校との違いにも、少しずつ馴染んでいきました。
てっきり高校卒業まで名古屋で過ごせるものと思っていたのですが、いつかは必ず横浜に戻るという父の意向もあり、高校1年生の秋にまた横浜のろう学校に戻ることになりました。

 

将来像を描けないまま・・・

――度重なる転校もポジティブに捉えていたんですね。高校卒業後は東京の青葉学園短期大学(2007年に廃校)に進学されていますが、学生生活はどのようなものでしたか?

忍足 最初は大学に行く気はなく、就職しようと考えていたんです。でも、その前に一度は学生生活を経験したい思いもあり、短大進学を決めました。ただ、ろう学校のカリキュラムって通常よりも2年くらい遅れているんですね。だから、そのハンデで合格するのは難しいかもしれないという思いもありました。実際に落ちた大学もありましたが、青葉学園短期大学からは合格通知をいただいて。振り返ってみると、短大で多くの友人に恵まれ、聴者の学生たちとも交流が持てたことは、本当にいい経験ができたと思っています。

――充実した2年間だったんですね。

忍足 そうですね。入学して最初に一生懸命探したのが「友達」でした。授業中に先生が黒板を向いて話すと、口の動きが見えなくなってしまって内容がわからないんです。だから、授業についていくためにも友達をつくろうと思ったんです。
「この人話しかけやすそうだな」と思ったら授業後に駆け寄って、筆談で「私は耳がきこえません。たまにノートを見せてもらえるだけでもいいので、お手伝いしてもらえませんか?」と、自分から積極的に話しかけるようにしたんです。そうこうしているうちに友達が増えていって、サークルにも入りました。みんなでボーリングに行ったりご飯に行ったり、本当に楽しい2年間でしたね。

友人たちと一緒に“女子大生”を謳歌した

――その頃に思い描いていた将来の夢や目標はあったんですか?

忍足 うーん・・・なかったですね。というのには理由があって。小さな頃からANAに務める父を見て育ったので、航空会社のキャビンアテンダントに憧れていた時期がありました。それを小学部の先生に話したところ、「お客さんとコミュニケーションは取れるの?」と聞かれて、何も答えられなかったんです。
それから、漫画が好きだったので、絵を描くのもとても好きでした。じゃあ将来はイラストレーターや漫画家になるのはどうだろう?とあるとき思ったのですが、今度は「たくさんの知識がないと漫画家にはなれないよ」と先生に言われてしまって・・・。そう諭されるたびに、夢を描くことにちょっとずつブレーキがかかってしまったんですよね。そのまま気づいたら、夢や目標がないまま短大まできてしまった感じでした。

大人の言葉で、夢が描けなかったあの頃

――そうだったんですね・・・。当時はどんな漫画を読まれていたんですか?

忍足 いろいろ幅広く読んでいました。最初にハマったのは少女漫画の『キャンディ♡キャンディ』です! あとは『ドラえもん』も好きでした。私の場合、学校で習う「書き言葉」と「話し言葉」の違いを初めて理解したのが、漫画だったんです。「音」についても漫画から学びました。例えば雨の「ザーザー」とか、車の「ブーン」とか。世の中にはいろんな音があるんだなぁと。音のない静寂も、漫画では「シーン」と表現しますよね。そういった表現がすごくおもしろくて。小説も読みますが、文字だけではやっぱりイメージがふくらみにくいので、たまに思考が寸断されてしまうんです。でも、漫画は絵と吹き出しがあることで、情景が手にとるようにわかる。私にとって漫画は、いろいろな情報や知識を与えてくれた、まさに教科書であり先生のような存在でした。

 

「ろう者のイメージを変えたい」
その想いから飛び込んだ映画の世界

――将来の夢がなかった学生時代を経て、俳優になろうと決意されたのはどういった経緯からだったのでしょう。

忍足 短大の先生の勧めで、卒業後は横浜銀行に就職して一般事務の仕事に就きました。でも私、ちょっと飽きっぽい性格なんです(笑)。データ入力やコピー、封書の送付、お茶出しといった日々のルーティンにやりがいを見出せなくって・・・。ここでは「とにかく貯金するために5年頑張ろう」と、自分の中で期限を決めて働いていました。そして退職まであと3ヶ月というタイミングで、NHKの『ノッポさんの手話で歌おう』という番組に出演する機会をいただいたんです。手話通訳士の友人からの誘いがきっかけだったのですが、最初は自分でも信じられない思いでした。でも小さな頃からノッポさんの番組を観ていたので、「一緒に仕事ができるなんて!」と嬉しくなり、出演を決めたんです。その経験が、「ろう者の私にもできるかもしれない」という一つの自信につながって。そこから、映像の世界に対する興味が芽生えたんです。

小さな頃から観ていた、あの『ノッポさん』と共演

――銀行を退職する直前とは、いいタイミングでいただいた縁だったのですね。

忍足 銀行を辞めてから、少し時間をつくって国内外を旅して、そのあとにいくつか舞台や映画のオーディションを受けてみました。その中の一つが『ちいさき神の、作りし子ら』という舞台。『愛は静けさの中に』というアメリカ映画にもなっている作品です。正直、まだ俳優を本格的に目指そうとまでは考えていなかったのですが、ろう者が主演を務めるということで、どこか心惹かれるものがあったんですね。でも結果は、最終審査で不合格。
その翌年に受けたのが、映画『アイ・ラヴ・ユー』のオーディションです。これもまた、ろう者の女性を主演に据えた作品で、ろう俳優を募集していました。さらに監督が2名体制で、そのうちの一人である米内山明宏さん自身もろう者で、脇を固める俳優陣もろう者が多く、これまでに前例のない映画だったんです。
「私に務まるかな・・・」という不安もありましたが、友人の強いすすめもあって受けてみることにしました。それに加えて、どうしても伝えたい想いがあったんです。

――というと?

忍足 「世間のもつろう者のイメージを変えたい」という想いです。それまでの映画やドラマって、ろう者が暗く孤独なイメージで描かれていることが多かったんですね。例えば『愛していると言ってくれ』『星の金貨』など、ろう者を描いたドラマがいくつか話題になりましたよね。ドラマをきっかけに手話に興味を持つ人が増えるのは嬉しいことですが、反面、「ああいうイメージが固定されてしまうのでは?」というモヤモヤもあって・・・。
実際のろう者は、もっと明るい存在です。友人もたくさんいて、手話で楽しく会話もする。そんなリアルな姿が、あまり映像の中で描かれてこなかったんですよね。だから、「自分の言葉で、自分の姿で、その現実を届けたい」と強く思うようになりました。

――結果的に、『アイ・ラヴ・ユー』がデビュー作にして初主演映画となったわけですが、初めて主演を務めた感想はいかがでしたか?

忍足 とにかく「主演って大変だ・・・!」というのが率直な感想です(笑)。出番が多いのはもちろんですが、たくさんの共演者やスタッフの前で演技をすることも本当に難しく、何よりとても緊張しました。それに映画やドラマってストーリーの順に撮影するわけではなくて、いきなり最後のシーンを撮って、明日は中盤のシーン、かと思えば急に泣くカットが挟み込まれていたり・・・というようにバラバラなんです。だから、とにかく感情のもっていき方に苦労しました(苦笑)。しかも演技の経験なんてなかったので、不安もいっぱい・・・。でも現場でとにかく周りの俳優さんたちを観察して、良いところを盗んでいきながら、少しずつ自分なりの表現を探していった感じでしたね。

『アイ・ラヴ・ユー』撮影当時。
飛び込んだ映画の世界は刺激的な場所だった

――まさに現場で、体当たりで学ばれたんですね。

忍足 そうですね。特に表情の演技は、経験豊富な俳優さんたちの目の動きや仕草をよく観察して、冷たい印象、優しい印象ってこう表現するんだ・・・と。もう、現場では毎日が勉強の連続でした。
もともと小さな頃から映画を観るのが好きだったので、海外の作品もたくさん観ていて。海外の俳優は特にエモーショナルな演技をするので、彼らの表情づくりを参考にすることも多かったですね。
そして手話表現についても、このキャラクターの雰囲気ならどういう表現をするべきか、台本を何度も読み込んで、自分なりにイメージを膨らませて。監督や共演者と話し合いながら、一緒につくり上げていきました。

 

「もちろんなれるよ!」がくれた気づきと決意

――芸能の世界は、それまで勤めていた銀行とは大きく違う環境だったと思いますが、続けることに対しての不安はなかったのですか?

忍足 確かにまったく違いましたね。でも、銀行ではいつも同じことの繰り返しでしたが、映像の現場は毎日が変化の連続。飽き性の私にとっては、芝居の世界には常に新しい出会いや刺激があり、心がワクワクする場所でした。

――短大時代は「夢が見つからなかった」と言われていました。『アイ・ラヴ・ユー』への出演を経て、「自分の道が見つかった」という手応えのようなものを感じたのでしょうか。

忍足 そうですね・・・「見つけた」という思いもあった反面、まだまだ覚悟が定まっていませんでした。オーディションに合格しても、「どうして私が選ばれたんだろう?」という疑問が拭えなくて。そもそも『アイ・ラヴ・ユー』では演じること自体が上手くできなかった反省もあって、「このまま俳優としてやっていっていいのかな」という迷いもすごくありました。「ろう者のリアルな姿を見せたい!」と意気込んでオーディションを受けたものの、その後のことまで深く考えられていなかったんですよね。

ワクワクも迷いも、すごくあった

――覚悟が定まったきっかけがあったのですか?

忍足 『アイ・ラヴ・ユー』に出演したあと、全国各地のろう学校を回って講演させていただく機会がありました。最後の質問コーナーで、ある小学生から「大きくなったら俳優になりたいのですが、なれますか?」と聞かれたんです。そのとき、私は迷わず「もちろんなれるよ!」って答えたんですね。というのも、それまで私は“大人の言葉”で夢を描けなくなっていました。だからこそ、「なれる」と伝えたんです。
その子が「じゃあ頑張ります!」とキラキラした目で言ってくれて、それを見たとき、本当に嬉しくて。「私が俳優を続けることが、ろうの子供たちの夢や希望につながるかもしれない」って、はっと気づいたんです。そこからですね、「この道を本気でやっていこう」と覚悟を決めたのは。飽きっぽい私が、気付けばもう26年も俳優を続けています(笑)。

 

イメージではない、リアルを届けるために

――26年間の中で、最も印象に残っている作品を教えてください。

忍足 一つは、やっぱり映画『アイ・ラヴ・ユー』ですね。この作品は、企画の段階からろう俳優を起用することにこだわってつくられていましたし、監督自身も「ろう者のリアルな姿を届けられる作品になった」と話されていました。多くの方が手話に興味を持つきっかけにもなりましたし、そうした社会的な意義のある作品に携わることができたのは、とても感慨深かったです。
もう一つ印象に残っているのは、2003年に制作されたauのCM『最後のメール』です。今もYouTubeで見ることができますが、わずかな時間の中に、幸せや葛藤、もどかしさといったさまざまな心情が丁寧に描かれています。相手役は大森南朋さんでしたが、この作品も、ろう者を起用した初めてのCMという点で、とても記憶に残っています。

当時「泣ける!」と話題になったCM『最後のメール』。
人々の印象に残る作品だった

――ドラマや映画、舞台も含め、ろうの視点で描かれている作品はまだまだ少ないと思います。今後、より多くの作品でろうの視点を描いていくためには、どんなことが必要だと思いますか?

忍足 やはり、ろう者自身が積極的に働きかけていくことが必要だと思います。そして、誰かの想像だけでつくるのではなく、聴者とろう者が対話を重ねて、互いに足りない部分を補い合いながらつくりあげていくことが大切ではないでしょうか。聴者の視点だけでろう者を描こうとすると、どうしても「イメージの中のろう者像」に偏ってしまう。どれだけ想像をふくらませたとしても、やはり現実とはズレが生まれてしまうと思うんです。

――それはどういったところで感じますか?

忍足 例えば、聴者の俳優がろう者の役を演じた場合、どうしても周囲のちょっとした音に反応して、つい音のした方向に視線が泳いでしまうことがあるんです。でもろう者には、そうした目の動きはまず起こりません。実際に「きこえるけど、そこは我慢して」と、聴者の俳優の方にアドバイスしたこともありました。
それに、ろう者は目であらゆる情報を捉えているので、視覚が敏感で、視野がとても広いんです。視界の端で何かが横切ったり人が通ったりすると、すぐに反応してそちらに目が向いてしまう。そうした目の動きも、ろう者特有の表現です。
『アイ・ラヴ・ユー』の米内山監督は、「ろう者の役はろう者が」という考えに一貫してこだわっていました。私もその意見に共感しています。

“きこえない”を武器に変えて

――今後、ろう俳優の活躍の場がもっと広がれば、ろうの子供たちの夢にもつながりますよね。

忍足 本当にそう思います。現状では、ろう俳優が演技できる場はまだまだ少ないですが、近年では希望の持てる動きも少しずつ出てきました。2021年のアメリカ映画『Coda コーダ あいのうた』は、ろう者の視点で描かれた話題作でした。その後、日本でも2022年に『silent』、2023年に『星降る夜に』という、ろう者が描かれたドラマが続けて放映されました。
そして昨年公開されたのが、映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』。この波を途絶えさせないためにも、やはり私たちろう者自身が動かなければいけません。映画やドラマ、舞台でも、聴者とろう者が一緒になっておもしろい作品をつくれたら最高ですよね。そのために、私たちから「やりましょうよ!」と働きかける。そうした有意義な機会を一つでも多くつくれるように、私もさらに意識して活動していきたいと思っています。

――今後演じてみたい役などはありますか?

忍足 サスペンスで刑事役とか(笑)! 今まで、ろう者が刑事という設定ってなかったと思うんですよ。少し離れたところから口の動きを読んで、「今“麻薬”って言った! 逮捕だ!」みたいな(笑)。ろう者の特徴や特技を生かして、そういうコミカルとサスペンスを掛け合わせたような、これまでにない設定の作品に挑戦してみたいです。でもジャンルは問わず、どんな役にもチャレンジしてみたいですね。

 

固定観念を壊してくれた三浦剛

――ご家族についても聞かせてください。俳優の三浦剛さんと結婚されて16年になるそうですが、改めて三浦さんのどんなところが好きですか? 急に直球な質問ですみません(笑)。

忍足 うーん、さすがに16年も夫婦をやっていると成熟した関係になるので、「好き」という気持ちは穏やかに落ち着いてきましたが・・・(笑)。でも夫は、「何かほしいものある?」「食べたいものある?」「やりたいことある?」といつも私を気遣ってくれる、本当に心の優しい人です。そんなところがやっぱり素敵だなって感じますね。
そもそも私は、ろう者はろう者同士で結婚するものだと思っていたので、聴者である夫と結婚したこと自体想定外の出来事だったんです。聴者とろう者では、一緒に生活していく上で通じ合えないという固定観念のようなものが自分の中にありました。特に、聴者が女性でろう者が男性の場合はうまくいくことが多いのですが、逆の場合は離れるパターンが不思議と多いんです。だから私自身も、「結婚するならろう者」と無意識に思い込んでいたというか。

――そこから結婚に至ったということは、三浦さんは忍足さんの価値観を変えてくれた方なんですね。

忍足 そうとも言えますね・・・。夫とは共通の俳優仲間を通じて出会い、その後舞台で共演しました。あるとき彼から映画に誘われたのがきっかけで付き合うようになったのですが、「ろう者同士じゃないと」という考えがまだ強くあって、半年ほどで私の方から別れを切り出しました。
ところがその6年後に、ひょんなきっかけからまた再会して・・・。互いにちょっと気まずい雰囲気もありましたが(笑)、メール交換をしようと言われて、また連絡を取り始めて、再び付き合うことになりました。そして2009年に結婚したんです。

「ろう者はろう者同士で」の固定観念を壊してくれた三浦剛さん

――2度目にお付き合いされた決め手はなんだったんですか?

忍足 彼は、出会った当初からとても熱心に手話を覚えて使ってくれていたんです。6年も経っていたので、「さすがにもう忘れてるだろうな」と思っていたのに、まったく忘れていなかったどころか、むしろ上達していて(笑)。その間もずっと私のことを想ってくれていたようで・・・最終的には私の“根負け”でしょうか(笑)。でも、本当に嬉しかったですね。

――根負けとはいえ(笑)、心温まるエピソードですね。最初もお話に出ていましたが、中学2年生になる娘さんがいらっしゃるそうですね。

忍足 はい、娘も夫と同じく聴者で、手話もできます。テレビに字幕がないときなどは、私に通訳してくれる優しい子です。当時、もう出産は難しいかもしれないと思っていた中、41歳で娘を授かることができました。私の母は、勉強面でも生活面でも厳しい人でしたが、自分が母になってみて、その気持ちがようやく理解できるようになりました。
よく「きこえない中での子育ては大変だったでしょう?」と聞かれるのですが、そこはもう聴者もろう者も関係なく、育児の大変さは共通していると思っています。夫もミルクづくりやおむつ換えを手伝ってくれましたし、子供の泣き声に反応して光るランプなど、便利な機器にも助けてもらって子育てをしてきました。

いつもにぎやかで笑いの絶えない3人家族

――娘さんに反抗期などはないんですか?

忍足 今13歳なんですが、まだないですね。ただ「ママ、何言ってるの?」「もっとちゃんと考えて!」など軽い口答えはしてくるので・・・もしかしたら私が気付いていないだけで、もう反抗期に入っているのかもしれません(笑)。
でも映画で共演した吉沢亮さんは、反抗期がなかったそうなんです。「反抗期ってありました?」って聞くと、「なかったです」って即答だったんですよね。そんな人もいるのか〜、いい子だったんだな〜なんてしみじみ思っていたのですが、娘はこれからなんですかね(笑)。

 

難しく考えすぎず、楽しみながら

――デフリンピックのことについても伺いたいのですが、忍足さんがデフリンピックを知ったのはいつ頃ですか?

忍足 これまでは海外での開催だったので足を運んだことはなかったのですが、デフリンピックの存在自体は何年も前から知っていました。だから日本で開催されることが決まったときは、とても嬉しかったです。ただ、まだまだ認知度は低いので、これを機にたくさんの人がデフリンピックやデフスポーツの存在を知ってくれるといいですよね。そのためにも、駅はもちろん、カフェや映画館など、多くの人の目につきやすい場所にデフリンピックのポスターが貼られるといいなと思います。街中がデフリンピックであふれたらいいのになって。

――楽しみにしている競技や応援している選手はいますか?

忍足 デフ卓球ですかね。5月に開催された「世界に字幕を添える展」に参加したとき、亀澤理穂選手ととても仲良くなったんです。いつも笑顔で明るくて、一緒にいるとつられて笑顔になっちゃうんです。そんな彼女を日本中、そして世界中の皆さんに知ってもらいたいですし、金メダル獲得を心から応援しています。
でもやっぱり、さまざまな競技に取り組んでいるアスリートの皆さんを、同じろう者として全力で応援したい気持ちです。大きな舞台だからこそ、皆さんには思いっきり活躍してほしい。そしてその姿を、聴者の方々にもぜひ現地で見届けてほしいです!

大舞台を、全力で楽しんでほしい

――デフリンピックを通して伝えたいことや、大会に期待することはありますか?

忍足 デフリンピックは4年に1回の大会です。今回は地元開催なので日本中が盛り上がると思いますが、次の大会までにはまた4年あります。大会が終わった後も、選手を応援し続ける気持ちを、どうか忘れないでほしいなと思います。
もちろん私自身も、これからも応援し続けていきます。そして次の大会、また次の大会と、皆さんがワクワクした気持ちでデフリンピックを迎えられたら素敵ですよね。

――デフリンピックの開催で、聴者とろう者がコミュニケーションを取る機会が増えると思います。ご自身の経験から、双方が互いに理解し合うには何が必要だと思いますか? 聴者の方へのアドバイスやヒントがあればお願いします。

忍足 聴者は相手が見えていなくても、口調や声のトーンから嬉しいのか怒っているのか、どんな気持ちなのかを読み取ることができますよね? 一方で、ろう者は顔の表情から相手の気持ちを感じ取ります。だから、互いに顔と顔を合わせて、目を見て話すことが何よりも大切なんです。手話ができなくても心配いりません。筆談はもちろん、今はスマホやアプリなど、昔に比べて便利なコミュニケーションの手段がたくさんあります。
それに、本当に伝えたい気持ちがあれば、身振り手振りでもちゃんと通じ合うことができますよね。大切なのは、難しく考えすぎず、自然に、そして楽しみながらコミュニケーションをとっていくこと。お互いの違いを知り合いながら、距離を縮めていけたら嬉しいですね。

忍足 亜希子(おしだり あきこ)/1970年 北海道生まれ
ろう俳優

横浜市立聾学校(現・横浜市立ろう特別支援学校)を卒業後、青葉学園短期大学に進学。5年間の銀行勤務を経て、NHKの手話番組『ノッポさんの手話で歌おう』への出演をきっかけに、表現の世界へ。
1999年公開の映画『アイ・ラヴ・ユー』のオーディションで主役に抜擢され、女優デビュー。同作で毎日映画コンクール スポニチグランプリ新人賞などを受賞し、注目を集める。
2002年には舞台『嵐になるまで待って』で俳優・三浦剛さんと共演し、2009年に結婚。2012年に女児を出産。近年も俳優として活躍を続け、2024年公開の映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』では、吉沢亮演じるコーダの青年の母親役を好演。キネマ旬報ベスト・テンや日本映画批評家大賞などで助演女優賞に輝いた。

IG:akiko_oshidari
X:@a_oshidari6

text by 開 洋美
photographs by 椋尾 詩

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