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川野 将虎(かわの・まさとら)
1998年宮崎県生まれ。男子35km競歩 2時間21分47秒(世界歴代2位)
御殿場南高校、東洋大学卒。2021年より旭化成株式会社所属。
50km競歩の日本記録保持者(3時間36分45秒/2019年)であり、35km競歩では2024年10月に世界新記録(2時間21分47秒)を打ち立て、東京2025世界陸上の日本代表に内定。
東京2020オリンピックの50km競歩では、過酷な条件の中で6位入賞。オレゴン2022世界陸上では35kmで銀メダル、翌2023年のブダペスト大会では銅メダルを獲得。パリ2024オリンピックでは岡田久美子とペアを組んだ混合リレーで8位入賞。安定した成績と不屈の精神で、競歩界のトップランナーとして注目されている。
「守る」より「挑む」――再び火がついた情熱
――昨年10月に35km競歩で世界新記録を樹立しました。
8月にパリ2024オリンピックを終えてから時間もなかったので、正直、全日本35km競歩高畠大会に向けて100%の準備はできていませんでした。でも当日は気候も含めて良い条件が揃った中で、前半は少し苦しんだんですが、勝負所で集中して歩くことができました。結果として、東京2025世界陸上の出場権を掴めたことは本当に良かったと思っています。
――レースが進む中で、世界記録を意識した瞬間はありましたか?
いや、全く意識してなかったですね。アジア記録については「もしかしたら狙えるかも」という感覚はありましたが、世界記録は頭になかったですね。だからレース後のインタビューで「世界記録です」と聞いて、そこで初めて知ったくらいで・・・。聞いたときはすぐに言葉が出なかったです(笑)。
――その後、世界記録はエバン・ダンフィー選手(カナダ)と、マッシモ・スタノ選手(イタリア)が更新しました。どんな思いがありましたか?
競歩界全体のレベルがどんどん上がっていて、20kmでは山西利和選手が世界記録を更新していますし、35kmもいずれは抜かれるだろうとは思っていました。ダンフィー選手、そしてスタノ選手が記録を更新していく中で、もちろん悔しい気持ちはあります。スタノ選手のレースはライブ配信で見ていて、やはりすごいなと素直に感じました。
ただ、もし自分が世界記録保持者のまま世界陸上に臨んでいたとしたら、チャレンジャー精神ではなく、守りに入ってしまう気もしていました。だから、もう一度チャレンジャーとして臨める状況が、自分にとってプラスになっていると感じています。今はすごくメラメラしていますし、モチベーションはかなり上がっていますね。

見る者を圧倒するパフォーマンスだった
「たまたま」から始まった、競歩との運命
――陸上競技を始めたきっかけを教えてください。
中学生の頃は卓球部に所属していました。卓球は好きだったんですが、正直あまり得意ではなくて、これじゃ目立てないなと思っていたんです。ただ、朝練でも走っていて、わりとスタミナはある方だという自覚がありました。そんな流れで「高校では陸上部に入って走ってみたいな」と、軽い気持ちで仮入部したんです。
当時は「一番緩い部活」と言われていたんですけど、ちょうどそのタイミングで、強豪校で指導していた先生が赴任してこられて。本格的に競技をやる雰囲気が生まれ、自分もそのまま入部することにしました。
――そこから競歩を始めることになったきっかけは?
最初のインターハイ予選を前に「5000mに出たい」と先生には話していたんですけど、エントリーリストを見てみると、なぜか5000m競歩になっていて・・・(笑)。慌てて先生に「間違えていますよ」と言ったんですけど、「競歩も走りに繋がるし、やってみたら?」と・・・(苦笑)。競歩なんてそれまで一度もやったことがなくて、試合の3日前に初めて練習しました。
――実際にやってみて、最初の印象はどうでしたか?
初めての試合は大差のビリ。「絶対に向いてない」と思い、すぐに辞めようと考えていました。でもそのレースで、上位の2人が失格になって、僕がギリギリ8位に。結果的に、県大会の出場権を獲得してしまったんです。最下位なのに県大会に行ける。本当に“たまたま”の出来事でした。それがなかったら、おそらく競歩をやっていなかったと思います。
でも、その後タイムが伸びていく中で、競歩の技術的な要素に魅かれていきました。ただ早くゴールすればいいのではなく、決められた型でどれだけ速さを追求できるか。そこに僕は魅力を感じるようになったんです。

そこからの“たまたま”が人生の転機に
「VRゲームをやっている感覚」
――長距離を歩き続けるのは苦しいときもあると思います。メンタルはどのようにコントロールしているのでしょうか?
すごく変なことを言うようですが、僕はVRゲームをやっている感覚なんです。
――と言うと?
「90%の没入」と「10%の俯瞰」という感覚で、自分の中ではそれが一番良い配分だと思っています。俯瞰し過ぎると周囲にまで意識が飛んで集中できませんし、逆に100%没入してしまうとパニックになる。
VRで『バイオハザード』をやると相当ビビると思うんですよ。でも、「これはゲームだ」という10%の俯瞰があることによって冷静になれる。その感覚が近いですね。それが自分にとって良い集中を生み出すので、レース中もそんなふうに自分を保つようにしています。
――レースで苦しいとき、俯瞰する10%が頭の中から飛んでしまうようなことはないのでしょうか?
逆に、苦しくなるほど俯瞰が強くなってくる感覚があります。きついことから逃げるために、より遠くから自分を見るようになるというか。でもそれは、自分の中では“逃げ”なんです。集団から離れてしまうと、90%没入している自分がどんどん薄れていき、体と頭が乖離する。そうなるとパフォーマンスを全く発揮できなくなるんですよ。

世界のトップに上り詰めた
――これまでで最も良いバランスで歩けたのはどのレースになりますか?
オレゴン2022世界陸上ですね。あの大会はドンピシャでハマった感覚がありました。逆に東京2020オリンピックは、緊張で前日の夜は眠れず、朝の食事も全く取れないほどで。レース当日も胃が完全にやられてストレスで給水も受け付けず、42km地点で倒れ込んでしまった。あのときは完全にのめり込み過ぎて、俯瞰がゼロになってしまっていたと思います。
――そのバランスを保つのも難しそうですね。
本当に難しいです。だからこそ、それをどう再現できるかに、今すごく興味がありますね。専門家を含めていろいろな人に話を聞いたり、相談したりしながら、自分なりの方法を探っているところです。
本番では練習以上の力を出せるのが僕の武器で、むしろ120%の力を出せるタイプなんです。その力を自分でうまくコントロールできるようになれば、これからも戦い続けられると信じています。

オレゴン2022世界陸上では銀メダルを獲得
ここであれば世界のトップと戦える
――旭化成入社の決め手は?
僕は宮崎県日向市出身で、旭化成の拠点がある延岡はすぐ近く。地元に根づいた会社という親しみもあって、入社を決めました。宮崎県の人にとって旭化成は本当に身近な存在ですし、僕自身、子供の頃から陸上部を応援してきたので、憧れもありましたね。
――旭化成入社後の印象はどうですか?
高校・大学生のトップ選手が入ってくるんですが、それぞれが異なる哲学や考え方を持っていて、話を聞いているだけでとても面白いんです。誰もが簡単に強くなったわけではなくて、それぞれの積み重ねがある。本気でトップを狙っている選手たちが集まっているので、その志にいつも刺激を受けています。

それぞれの哲学に刺激を受ける日々
――サポート体制や練習環境についてはいかがですか?
非常にありがたい環境です。これまで世界陸上で活躍できているのも、生活面のバックアップによる安心感がとても大きい。合宿なども含めて、常に充実したサポートをしてくださっています。現在は延岡に拠点を置いていますが、練習に集中できる環境が完璧に揃っていて、ここであれば世界のトップと戦えると実感しています。
――普段、社員の皆さんとの交流もあるのでしょうか?
以前、埼玉に拠点を置いていたときは、週1回は出社して、社員の方々とお話ししたり、ミーティングに参加させていただいたりしていました。いろいろ学ばせていただきましたし、皆さんとても温かくて、応援の熱量をすごく強く感じています。今つけている時計も、実は部署の方々が「世界陸上で頑張ってね」とプレゼントしてくださったものなんですよ。応援の想いを身近に感じながら歩けることが、何より心強いです。

「ここであれば世界のトップと戦える」と感謝する
“先陣”として魅せる、覚悟の一歩
――東京2025世界陸上はどのような舞台だと捉えていますか?
僕にとって世界陸上は、「戦い」だと思っています。集中力を研ぎ澄まして、勝負を懸けに行く。自分自身の全霊を賭して臨む感覚です。
――東京2025世界陸上の目標を教えてください。
今大会は35km競歩が全体の最初の種目になります。これまでは他の種目が先にあったので、「僕も続こう」と他の選手の活躍に背中を押されていました。でも今回は、逆に自分が良い成績を残して、他の選手に「自分たちもやってやろう」と思ってもらえるような歩きをしたい。2大会連続で銀、銅とメダルを獲得しているので、3大会連続のメダル、そしてさらに上のメダルを目指して、しっかり準備を重ねていきます。
――競技以外で楽しみにしていることはありますか?
会社の上司の方が「300人ぐらい集めていくからね」と言ってくださっていて(笑)。とても心強いです!日本選手権で世界記録を出したときも職場の方が応援に駆けつけてくれて、それがすごく力になりました。苦しい場面でも最後まで集中力を切らさず粘れたのも、あの声援があったからこそだと思います。
東京2020オリンピックでは競歩が札幌に変更されたので、東京で歩けることを心から喜んでいます(笑)。今度こそ、皆さんの目の前で最高の歩きを見せたいですね。
「つい手をあげちゃう」 好奇心が止まらない子供時代
――川野さんのプライベートについてもお伺いさせてください。小さい頃はどのようなお子さんでしたか?
とにかく単純な性格で、ちょっとでも「これ好きかも」と思うとすぐ飛びつくタイプでした。習い事は、小学生のときに柔道、バドミントン、卓球といろいろやっていましたし、応援団の団長や合唱の指揮者、運動会の騎馬戦の隊長なんかもやっていました。好奇心が湧くと、どんどん突き進んでしまい、一つひとつのことにのめり込んでしまう、そんな子供だったと思います。
――人前に出ることはさほど苦手ではなかったですか?
いや、人前で話すことはすごく緊張するんですよ。でも、本番のことを深く考える前に「やりたい!」という気持ちが先に出て、つい手を上げてしまうタイプでした。実際にやってみると恥ずかしい失敗をしたりするんですけど、それでもやりたいという思いの方が勝っちゃうんですよね。

――恥ずかしい失敗というのは?
小学生のときの騎馬戦は、今でもちょっと恥ずかしい思い出ですね(笑)。当時の僕はすごく痩せていたんですけど、騎馬になってくれた3人がめちゃくちゃ頑丈で大きい子たちでした。練習では毎回勝っていたんですが、本番になると僕がびびってしまい・・・全然勝てなくて(苦笑)。
――でも競歩では練習以上の力を出せるとおっしゃっていましたよね。
それは競技特性によるところが大きいと思います。僕は対人競技がめちゃくちゃ苦手で・・・柔道も卓球も、練習ではそこそこできるのに試合では本当に弱かった。
僕が力を発揮できるのは、何も考えなくていいときなんです。35kmや50kmといった長い距離では、駆け引きよりも「決めたことを一貫してやる」力が問われる。でも20kmだと相手の動きに対応する要素が増えるので、少し苦手なんですよね。だからこそ、35kmが一番好きなんです。

手が覚えてるほど、夢中になった
――周囲からはどのような性格だと言われますか?
よく「真面目だよね」「礼儀正しいよね」と言われます。でも一方で「あまり面白くない」とも言われます(笑)。
――「礼儀正しい」と言われる要素は自分でも感じますか?
高校・大学とそういう教育を受けてきたので、それをちゃんと身につけているとは思います。でも本質的には、そんなにしっかりした人間でもないんじゃないかな・・・。
人の話を聞くことに関しても、「これはいいな」と思ったことは、ずっとやり続けられるタイプなんですが、「これはちょっと」と思うことは、表向きは「はい」と言いながらもやらなかったり。自分の中で納得感がないと続けられないんです。
――スポーツ以外で、子供の頃に好奇心が湧いたものはありますか?
それはもうヨーヨーですね。小学校5~6年生の頃、めちゃくちゃハマっていました。休みの日や食事の時間もずっとヨーヨーをやっていて、同じ技を100回ぐらい繰り返してました。今でもできますよ! 手が覚えているんです。それぐらい、体に染みつくまでやり込んでいました。
――ご家族の反応はどうだったんですか?
応援してくれたし、けっこう認めてもくれていました。「やめなさい」と言われることはなくて、むしろ一緒に楽しんでくれる感じでしたね。

「今でも手が覚えている」
音楽はあえて聴かない
――休日はどのように過ごされることが多いですか?
ゆっくり家で過ごすことが多いです。あとは寮に住んでいるので、たまに他の選手と一緒にご飯を食べに行くくらいですね。美味しいものを食べるのが好きなので、延岡でおすすめのお店を紹介してもらって、一緒に行ったりしています。あとは漫画を読むくらいで、趣味らしい趣味がないんですよ。
――どういう漫画を読むんですか?
王道系が多いですし、紹介された作品もよく読みます。僕にとって漫画って、ある意味“コミュニケーションツール”なんです。会話のきっかけにもなるし、話題づくりの感覚で読んでいます。最近では『BLUE GIANT』がめちゃくちゃ面白くてハマっています。
――面白いですよね。映画も観ましたか?
はい、サブスクで観ました。それで感化されて、『COTTON CLUB』というジャズクラブにも行ってみました。ちょっとミーハーなんですけど(笑)。

――試合前などに音楽は聴くんですか?
あまり聴かないですね。音楽を聴くとその世界に集中してしまって、試合に没頭できなくなるので。レースに向けて心をつくっていくうえで、あえて聴かないようにしています。
――試合前はどうされているんですか?
試合のことしか考えていないですね。事前に「レースでこう動く」というスケジュールを決めておいて、当日はその通りに動くだけ。あれこれ追加で考えてしまうと、余計なノイズになってしまうので。前もって決めたことを淡々とこなすことで、心を整えていきます。
――試合前の周囲の雑音などは気になりませんか?
逆にめちゃくちゃありがたいんです。周囲の音や雰囲気が、今から試合が始まるというトリガーの一つになるので。他の選手のアップの動きなんかを見て、それをスイッチに自分も集中モードに入っていく感覚です。

「ひと笑い取れる存在になりたい」
――ご自身が苦手なことや、克服してみたいところはありますか?
うーん・・・例えば、競歩をもっと盛り上げていこうという場面で、こういう取材の場でももうちょっと面白いことを言えるといいんですけど(笑)。そういう存在になれたらいいなって思っています。
――競歩の選手って淡々と受け答えされる方が多いイメージです。川野選手がぜひ、先陣を。
いやいや、それはハードルが高いです(笑)。そこまではきついんですけど、ひと笑いくらいは取れるようになりたいですね。浜西諒選手のように面白いことを言って盛り上げる人もいますが、今の競歩を代表する山西選手は文武両道を地で行く人なので、そういうイメージが競歩にはついているかもしれません。僕も少しでも競歩を盛り上げようとInstagramで発信してみたりしています。
――ご自身以外でおすすめの選手を教えてください。
そうですね・・・山西選手は当たり前過ぎるので、それ以外で挙げるなら――まず、丸尾知司選手ですね。一緒に練習もしていて、すごく頼れる兄貴という感じです。東京大会は20km・35kmの2種目で出場されますし、技術もメンタルも安定感があって尊敬しています。
これから伸びてきて面白そうなのは吉川絢斗選手ですね。20kmの代表権を獲得して勢いもあるし、話していてもいろいろ考えながらやっているのが分かる。素直な心も持っている選手です。東京2025世界陸上をきっかけに、一気にブレイクしてほしいなと思います。

吉川選手はどんなキャラクターなのか・・・
――他の競技にもいらっしゃいますか?
柔道の永瀬貴規選手は尊敬しています。実はパリ2024オリンピックの選手村で、泊った部屋がたまたま一緒だったんですよ。部屋に入ったらすごく整頓されていて、後で永瀬選手に「前に使ってた人、めちゃくちゃきれいでしたよ」って話したら、「そこ、俺が使ってたんだよ」って(笑)。結構散らかった状態なことが多いんですけど、きれいすぎて本当に感動しましたね。同じ旭化成の所属でもあって、東京2020オリンピックのあとに挨拶回りで一緒になって、それからよく話すようになりました。

金メダリストであると同時に、その振る舞いにも尊敬の念を抱いている
――最後に東京2025世界陸上を楽しみにしているファンの皆さんにメッセージをお願いします。
僕が現役の間に、東京で世界陸上が開催される機会は二度とないと思います。だからこそ、皆さんにはぜひ会場に足を運んで、世界の強豪と本気で戦う姿を生で観てほしいです。もしチケットがなくても、競歩は沿道でも観られますし、飛び入り参加も全然OKです。現地で声援を送っていただけたら、とても嬉しいです!
Instagram:masatora_kawano
X:@masatora_kawano
text by Moritaka Ohashi
photographs by 椋尾 詩
共同制作:公益財団法人東京2025世界陸上財団