目次
中島 ひとみ(なかじま・ひとみ)
1995年兵庫県生まれ。女子100mH 12秒71(日本歴代2位 ※2025年8月時点)
夙川学院高校(現・夙川高校)卒、園田学園女子大学(現・園田学園大学)卒。2018年より長谷川体育施設所属。
中学2年生でハードルを始め、わずか1年で全中を制覇。高校では2年時に国体や日本ユースで優勝するも、3年時は体調を崩しインターハイ出場を逃す。以降、大学、実業団と競技を続けるが、長らく低迷した期間を過ごす。
2022年、初めて日本選手権の決勝に進出し4位入賞。2024年9月の全日本実業団では、自身初の12秒台をマーク。続く今季には、走るたびに自己ベストを更新する進化を遂げる。7月のフィンランドで行われたモトネットグランプリで、12秒71という日本歴代2位の記録で東京2025世界陸上の参加標準記録(12秒73)を突破。ついにその実力が開花した2025年、今大きな注目を集めるハードラー。
孤独な遠征と、国内での証明。異なる価値を持つふたつの『12秒71』
――今年の日本選手権は、中島選手にとってとても意味のある大会だったと思います。振り返ってみていかがですか?
「よく生き抜いた」・・・もう、その一言に尽きます。日本選手権の1か月くらい前から緊張しっぱなしで、メンタル的に本当にしんどかったですね。「ワールドランキングに入って東京2025世界陸上へ行く」ことを大きな目標に掲げていたので、ポイントをしっかり稼ぐためにも「最低限この順位を、このタイムを」と自分にどんどんプレッシャーをかけてしまって・・・。予選からガチガチで、準決勝も決勝も、一瞬でも気を抜いたら手が震えるほど緊張していました(苦笑)。だから決勝が終わった瞬間は、「よし、終わったーーーっ!!!」とホッとした気持ちがとにかく大きかったですね。
結果は2位でタイムも悪くはなかった。でも、やっぱり悔しい気持ちがありました。あの場では笑っていましたが、優勝を目指して臨んだ大会だったので、家に帰ってふと考えたときに悔しさがこみ上げてきて・・・。それでも、あの時点での全力の走りはできましたし、自分にとっては一回りも二回りも成長できた大会でした。
――電光掲示板を見ながら気が気じゃなかったと思いますが、最後は会場全体が温かな空気感に包まれていましたね。
本当に多くの方々から、「感動した」「いいものを見せてもらった」という言葉をいただきました。決勝であのメンバーと戦えたことは、競技人生の中でもずっと記憶に残っていくんだろうなと思える、そんな経験になりました。

世界陸上への道を拓けたレースだった
――そして、日本選手権から間もない7月24日、フィンランドで行われたモトネットグランプリでは12秒71をマークし、東京2025世界陸上の参加標準記録(12秒73)を突破しました。このときはどんな心境でしたか?
フィンランドには単身で行っていたんですね。もちろん心の底から嬉しかったんですが、その場ではなかなか実感が湧かなくて・・・。日本ならきっと周りの歓声も大きくて、一緒に喜んでくれる人たちがたくさんいたと思うんです。でも海外の大会で雰囲気も違い、「え⁉ 今切った? 本当に??」みたいな(笑)。一緒に走った海外選手たちも喜んではくれましたが、自分は半信半疑で頭がまったく追いつかず・・・。そのあと家族や監督に電話する中で、「本当に切ったんだぁ〜」とようやく実感が湧いてきました。
――その中で、今度は8月9日に平塚で開催されたオールスターナイト陸上にも続けて出場されました。こちらも自己ベストタイの記録でしたが、すでに参加標準記録を切っている中で出場された理由は?
一つは、これまで“追い風”の中でいいタイムを出せたことがあまりなかったので、今の好調なときにしっかりタイムを出せる自信をつけておきたかったんです。もう一つは、日本記録を狙いたかった。フィンランドで日本歴代2位の自己ベストを出すことができたので、世界陸上に向けてもう一歩弾みをつけたかったんです。それに・・・フィンランドでは観客に日本人がいなかったので、「こいつ本当に参加標準記録切ったのか?」と疑われてないかなって(笑)。もちろんそんなことはないのですが、国内でもしっかり証明したかったんです。

世界の舞台に立つ存在へ
――証明、できましたね。
ただ、この大会はこれまでにない独特の緊張感がありました。フィンランドとは違って現地で応援してくれる人がたくさんいて嬉しかった半面、参加標準記録を突破しているだけに「変な走りはできないな」と。あまりよくない緊張感を持ってしまいました。加えて、湿度が高く体も重い状態で・・・。それでも出せた12秒71という記録、これはとても自信になりましたね。
フィンランドは天候もよく、走りの感触も抜群でした。でも、海外に単身で乗り込むという不安感はとても大きかった。同じ12秒71でもそれぞれ違った価値のある、双方で学びを得られた大会でした。
「楽しくてしょうがない!」 一躍世代のトップへ
――中島選手がハードルを始めたのは、中学生の頃でしょうか?
中学2年生のときですね。1年生の頃は100mを専門にしていましたが、あるとき先輩がハードルを跳んでいる姿を見て、めちゃくちゃかっこよかったんです。実際に挑戦してみると、100mとはまた違った魅力があって。ハードリングや着地の仕方など、テクニックが絡んでくる分だけ複雑にはなるんですが、その技術を磨いて深掘りしていくおもしろさがあるんです。中学生ながらにそれを感じて、ハードルを続けたいと思いました。
――おもしろさに惹かれて、自然と記録もついてきた感じだったんでしょうか。
中学生くらいって、やればやるほど伸びていくようなところがありますよね。当時は、試合に出れば出るほど自己ベストを更新していたような感じで、トントン拍子に狙える位置まで行けていた記憶があります。夢中になって練習しているうちに、中学3年生のときには全中で優勝することができました。

――ハードルを始めてわずか1年で、すごい進化ですね。
その分、練習量はかなり多かったですね。当時はとにかく陸上が大好きで。中学3年生になったタイミングで、それまで指導してくれていた先生が異動してしまったんです。でも、先生の自宅までは私の学校から自転車で15分の距離で。だから部活が終わるとその足で先生の自宅まで行って、近くの公園で夜9時くらいまで練習を見てもらっていました。
――部活のあとに、さらに練習するような生活だったのですね。
毎日そんな生活を続けていましたが、「とにかく速くなりたい」という一心で、疲れるどころか練習が楽しくてしょうがなかったんです。練習すればするだけハードリングが上達していく感覚や、その過程も本当に楽しくて、ずーーっと練習していました。だから遊んだ記憶はほとんどないですね。もちろん、たまには友達と出かけることもありましたけど、試合が近付くと怪我をしたくないので遠出は控えていました。
順風から失速、そして「空っぽ」の10年へ
――高校は強豪の夙川学院高校(現・夙川高校)に入られましたが、高校時代はどんな選手だったのですか?
高校2年生までは記録も伸びて、成績もよかったんです。国体や日本ユース(現・U20日本選手権)では優勝もできましたし、この調子で3年生になっても結果を残せるものだと思っていました。まだインターハイだけは優勝できていなかったので、3年時の目標はインターハイで優勝して日本一になること。そのために練習に励んでいたのですが、冬季練習中に足を怪我してしまい、シーズンインしてもなかなか調子が上がらない状況が続きました。前年度の国体で優勝していたのもあって、焦りとプレッシャーがさらに大きくなっていったと思います。「日本一」になるということを、もっとポジティブに捉えられたらよかったのですが・・・。
――責任や使命のように感じてしまったんですね・・・。
そうなんです。「こうならなきゃ」と、自分で自分を追い込んでいました。その結果、インターハイに繋がる大事な大会の2日前に、ストレス性胃腸炎にかかってしまったんです。試合当日も吐いて、点滴を打ちながらレースに臨みました。準決勝までは進んだのですが、結果は9位。決勝に行くことさえできず、インターハイの出場も逃しました。
今ならもっと違う考え方ができたと思うんですが、高校生の私にとっては陸上が生活のすべて。インターハイに行けなかったことで何もかもなくなって、「空っぽ」になったような感覚でした。

――それでも競技は続けられたのですね。
大学でも競技は続けましたが、陸上に対する「想い」がガラリと変わってしまって・・・。それまでは「勝ちたい」という一心でやっていたのに、その感情がまったくなくなってしまったんです。というか、「負け」を認識するのも怖かったので、だから負けても何も感じないようになっていった・・・というのが正しいかもしれません。
一応自己ベストは更新して、日本選手権には出ていたものの、決勝で勝負できるようなタイムではまったくなかったですね。そんな状態が10年近く続いたのですが、その間は上位層の選手たちをどこか観客のような目線で、「すごいな〜」と遠巻きに見ている自分がいました。
勝ちたい——再び灯った熱意のきっかけ
――そんな中、2022年には日本選手権で入賞されています。それまでの状態から抜け出せたということでしょうか。
2022年の日本選手権では、初めて決勝に残り4位(13秒37)に入ることができました。長く「負けても何も感じない」状態でしたが・・・、心の奥底ではやっぱりずっと悔しくて、勝ちたいという思いを抱え続けていたんですよね。その本音がこのレースをきっかけにあふれてきて、『また勝ちたい』と強く思えるようになりました。振り返ると、大きなターニングポイントだったように思います。

福部真子、青木益未、田中佑美に続く4位だった
――入賞できた要因はどのようなところだったのでしょうか?
表舞台から遠ざかっていた間も、かろうじて「自己ベストは出そう」という思いだけは持ち続けていました。ただ、それ以上の目標はまったく持てなかった。以前のように高い目標を持ってしまったら、クリアできなかったときにまた同じような状態になるんじゃないか・・・。そんな恐怖心があって、自分でストッパーをかけてしまっていたんですね。
それでも、前年2021年の日本選手権では調子が上向き始めて、前向きな気持ちを少しずつ取り戻しつつありました。実際に入賞をねらえそうな位置につけていたのですが、その矢先に剥離骨折と肉離れをしてしまって・・・。怪我は自分の責任ですし、これまでも何度も経験してきました。ただ、このときの怪我は今まで以上に心に響くものがあったんです。心が空っぽのままではなく、悔しさと同時に「必ずリベンジしたい」という強い気持ちが湧き上がってきました。
――だからこその、2022年の入賞だったんですね。
そうですね。この日本選手権での入賞をきっかけに、目標の組み立て方を見直してみようと思えたんです。その頃は、国内でも12秒台の記録を持つ選手が出始めていた頃でした。それでも焦らず、次の目標はひとまず13秒0台で走ること。いきなり12秒台や代表入りを目指すのではなく、逆算して目標を立てて、コツコツ達成していこう・・・と。だから当時はメディアの取材に対しても、「代表を目指したい」とは口にしませんでしたね。
――気持ちが少しずつ前を向いてきたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。
長くうまくいかない時期を過ごす中で気付けたのは、『目標に向かって挑戦できること』が、いかに特別で幸せなことなのか・・・ということです。困難や逆境に直面したときこそ、自身の意志の強さが試されますよね。それを乗り越える覚悟や決意が、次のステップへ進むための原動力になるのだと実感しました。
長い間、タイトルを一つも獲得できませんでしたが、その期間は決して「低迷」ではなく、『覚悟を深める時間』だったんだなと、今では感じています。勝てない、走れない日々の中で、何度も「なぜ走るのか」を問い続けました。負け続ける中で気付けた、勝利以上に大切なもの。それは競技への愛情や、自分の覚悟を見つめ直すことだったんです。周囲の支えや環境の変化もあってこそですが、そういう経験のおかげで、今また「本気で勝ちたい」と思える自分に出会うことができました。
もう一度、前を向いて進むことができる。それまでの10年を考えると、ものすごく大きな変化ですね。

それも必要な時間だった
辿り着いた“12秒99”。広がった新しい世界
――2022年の日本選手権4位を経て、2024年の全日本実業団ではついに12秒99を出されました。そこから今年まで、自己ベストを更新し続けています。この快進撃の裏には、技術的な面での改善もあったのですか?
もちろん技術面もありましたが、私にとっては何より、この最初の「12秒99」がとても大きな足がかりになりました。12秒台は昨年の目標だったので、だからそこでようやく「来年は世界陸上に出る!」と明確に目標をシフトすることができたんです。それ以降は気持ちが一気に前向きになって、今までにない強いメンタルで試合に臨めました。だからこそ今シーズンがある。この「12秒99」がなければ、今の快進撃もなかったですね。
――ちなみに技術面ではどういったところを改善されたんですか?
まず、冬季練習からウェイトトレーニングを本格的に取り入れました。これまではあまり力を入れてこなかったんですが、昨年の冬に入る前に自分なりに勉強したり、練習を一緒に見てくれている豊田くんとも話す中で、メニューをかっちり決めたんです。
ただ最初は、ウェイトで得たパワーが自分の取り柄のバネや瞬発力にうまく嚙み合わなかったんですね。でもレースを重ねるごとに両方がうまくリンクしてきて、1歩ごとの出力が上がり、100mのスピードもかなり速くなりました。
もう一つは、跳び方の変化です。昨年の12秒台が出る少し前に、それまでの「ハードルすれすれ」の跳び方を見直しました。私の場合、その跳び方だと腰が引けてしまい、着地の際に不恰好な体勢になっていたことで、スピードにうまく乗れなかったんです。改善策を探していろいろな動画を見てハードリングを研究していたところ、海外の選手が割と高い位置で跳ぶのを見て、「これでいってみよう」と。次の練習から踏切位置を少し変えて、高さを調整しました。その結果、着地したときにしっかり一本の軸をつくれるようになって、着地後の次の1歩目が格段にスムーズになりました。

持ち前のバネと瞬発力と嚙み合ってきたことで記録がついてきた
――ほかの選手の動画はよく見るんですか?
国内外問わず、めちゃくちゃ見ます。きっと私のおかげで再生回数はかなり増えてるはずです(笑)。いろいろな選手の動きから自分に合うものを見つけて、研究して、取り入れてみる。パズルのピースを集めているような感覚ですね。寺田明日香さんが結構海外選手っぽい跳び方をするので、寺田さんの動画もかなり見まくりました。
日本選手権のときはまだ新しい跳び方をマスターしきれていなかったので、フィンランドへの機内でも、とにかくビデオを見て脳内レースしてました(笑)。その跳び方が初めて「ハマった!」と思えたのが12秒71を出したフィンランドの大会だったんですよ。頭に描いていた理想の動きを形にできた、大きな収穫のあったレースでした。
――機内でも! もともと研究熱心な性格なんですか?
それは、豊田くん(400mHの豊田正樹選手)と出会ってからなんです。彼は陸上が本当に大好きなんですよ。私は、以前はほかの選手の動画はあまり見ないタイプでした。でも彼と話していると、今まで知らなかったり意識していなかったことを、すごく細かく教えてくれるんです。それを聞いているうちに、いつの間にか「陸上ってこんなに楽しかったっけ?」と思うようになってきて。それから自分でもいろいろな選手の動画を見て研究するようになりました。
楽しいのって、基本的にはいいタイムが出たり、自分が波に乗れているときだと思うんです。でも今はそうじゃなくて、『考えること』そのものが楽しいというか。「どうしたら速くなれるか」「何をすれば自分の取り柄を活かすことができるのか」、それを探すのが面白くて仕方ないんです。だから今、陸上人生の中でいちばん充実している実感があります。

東京で見せる、私の走る意味
――もう間もなく、東京2025世界陸上が開幕します。どんな走りを見せたいですか?
ここに来るまで、ものすごく長い時間がかかりました。だからこそ、ここまでの歩みを“自分にしかできない走り”で表現することがまずいちばんの目標です。その上で、最高のパフォーマンスを目指していきたいですね。記録や結果はもちろん、自分が世界陸上の舞台に立てた意味を東京で示すことができたら、最高です。
――大会で楽しみにしていることはありますか?
ずっと応援してくれている家族や友人に、日本代表として戦う姿を見てもらえることです。本当に楽しみで、今からワクワクしています!
――この先に描いているロードマップのようなものがあれば教えてください。
明確なプランはまだありませんが、“自分の名前が長く残る記録”を残したいという思いはあります。ただ、目の前の目標を一つひとつクリアしていくスタンスは、今も変わっていません。
だからまずは12秒7台を安定して出せるようになること。それができるようになったら、次は12秒6台。そして今はまだ難しいですが、世界と戦える選手を目指したい。日本のハードラーが世界でどれだけ通用するのか、自分の競技人生が続く限り挑戦していきたいです。
私が大事にしていることの一つが、「初心を忘れないこと」。どんな立場になったとしても、その初心を胸に、常にチャレンジし続けたいですね。
――中島選手に勇気をもらう人がたくさんいると思います。紆余曲折の競技人生を歩んできたからこそ、これから陸上を始める人や世界を目指す人に、何か伝えたい思いはありますか?
私が普段から心がけているのは、「結果」に左右されすぎないことです。自分の経験から見ても、結果だけに捉われると、気持ちの浮き沈みが激しくなってしまう。記録と向き合うことは大切ですが、自分の弱さや未熟さと向き合うことでもあります。だからこそ心が整っていないと、余計に振り回されてしまいます。
たとえ結果が出なかったとしても、普段の練習でできるようになったことや、小さくても必ず発見があるはずなんです。だから私は、今日できたことに目を向けるようにしています。うまくいかない日でも、必ず学びや収穫はある。それを積み上げることで、アスリートとしても、人間としても成長できる。そう考えられるようになってから、陸上をより前向きに、そして心から楽しめるようになりました。この記事を読んでくれた皆さんにも、小さくても確かな成長を見つけて、それを喜べる自分に出会ってほしいですね。
茶道部志望、夢はLush店員
――ここからは、中島さんのプライベートなお話も聞かせてください。ご自身の性格はどんなふうに見ていますか?
うーん・・・どうでしょうね。でも、長く一緒にいる人たちからはよく「天然」だと言われます(笑)。ただ試合になると豹変するみたいです。
――豹変(笑)。自覚はありますか?
確かにスイッチは入りますね。ゾーンに入ると周りをシャットアウトしちゃう。だから瞬間的に切り替えるのが得意というか。集中するときはとことん集中、遊ぶときは全力で遊ぶ。日常でもメリハリがはっきりしているタイプだと思います。
――子供の頃、それこそ陸上を始めるまでは将来の夢などあったんですか?
あまり覚えていないんですが・・・部活には最初は陸上部じゃなく、茶道部に入ろうと思っていました。家でのんびりするのが好きだったので、早く帰ってゆっくりしたかったんです。なので、週に1回しかない茶道部がいいな〜って。それに和菓子も食べられるじゃないですか(笑)。
そんな現実的(?)なタイプだったので、夢も全然おもしろみがなくて。覚えているのは・・・Lushやサーティワンの店員さんになりたいと思っていたことくらいですね(笑)。Lushの石鹸って独特な香りがあると思うんですけど、ショッピングモールに行ってあの香りを嗅ぐと「ここで働くのもいいな〜」なんて。そんな行き当たりばったりの感じでしたね(笑)。

ずっと信じてくれた人
――2023年にご結婚されていたことが話題になりました。豊田選手と出会ったのはいつ頃だったのですか・・・とか聞いてもいいですか(笑)。
大丈夫です(笑)。二人とも通っていた中学校が兵庫県内で、地区も同じだったんです。高校時代から仲のいい同級生に彼と同じ中学出身の子がいて、その子から「すごく強い選手(豊田選手)がいる」という話をよく聞いていました。だから豊田くんの存在を知ったのは高校生の頃なんです。でも当時はSNSもなかったですし、最初は顔と名前が一致してなかったんですけどね(笑)。
――そんな頃からご存じだったんですね。中島さんにとって夫の豊田さんはどんな存在ですか?
今の結果に至るまで、「この人がいなければここまで来ることができなかった」と言えるほど、ほんと〜〜〜に大きな存在です。私が13秒台で走っていたときでさえも、そのときから「絶対に日本記録を出せるポテンシャルを持ってる」って言い続けてくれていたんですよ。私は「そんなの無理だよ・・・」と思ってしまうタイプだったのですが、アスリートとしての自分にこんなに期待してくれている人がいるのは、内心とっても嬉しかったですし、心強かったですね。そしたら今こんなことになったので・・・正直私たちがいちばんびっくりしてます(笑)。

――とても素敵なエピソードですね・・・!
周りは誰もそんなこと思っていなかったかもしれません。でも、いちばん近くで信じ続けてくれた存在がいたことは、何より大きな力になりました。2023年に結婚したことも、競技と向き合う上でメンタルの安定に繋がったと思います。家族以外にもまたひとつ“安心して帰れる場所”ができたような感覚です。今年の日本選手権までの道のりでも、本当に支えてもらいました。もし一人だったら、きっと違う結果になっていたかもしれない。感謝してもしきれません。
推したちがくれる至福の時間
――オフの日の過ごし方を教えてください。
アニメを見たり、愛犬と一緒に過ごすことが多いです。基本的にはおうち派ですね。アニメは夫婦そろって大好きなので、夕飯は大抵アニメを見ながら食べています。ちなみに今見ているのは『ワールドトリガー』です!
――いろいろなアニメを見られるんですか?
何度見てもいいなと思うのは『ドラゴンボール』と『HUNTER×HUNTER』ですね。最初は弱い主人公が、努力しながら困難を乗り越えて成長していく――そんな王道のストーリーが好きで、素直に勇気をもらえるんです。だからスポーツ系も好きで、『ハイキュー!!』や『黒子のバスケ』もよく見ます。そういうアニメを見ながら、「私も練習頑張ろう!」って日々気合いを入れてます(笑)。好きすぎてフィギュアもめっちゃ集めてて! 増えすぎて、家の中がとんでもないことになっていますが・・・。

――アニメの展示会にもよく行かれるそうですね?
そうなんです! 展示会は彼がいつもまめに情報をチェックしてくれて、見つけるとすぐに「行こう‼」って誘ってくれるんです。豊田くんがすでに行ったことがある展示会でも、「一緒に行こうよ」って言ってくれるのがうれしくて。去年は福岡まで連れて行ってくれました(笑)。
試合のお祝いでは私の大好きなアニメのフィギュアを買って待っていてくれたり、試合前に緊張や不安でしんどかったときには、そっとひまわりを渡してくれたり。そういう一つひとつの行動に思いやりが詰まっていて、本当に心が救われるんです。
旦那さんでありながら、なんでも話せて“推し活”も一緒に楽しむ親友のようでもあって。だからこそ、一緒に過ごす時間はどんな瞬間も特別で、大切にしたいなと日々感じています。

――SNSでは、もうひとりのかわいらしい家族もよく登場しますね。
去年からポメラニアンの「ぷりん」を飼っています。4月で1歳になったばかりです。実はぷりんを飼う前にも、別のかわいいポメラニアンにペットショップで出会って「飼いたいね~」と話していたんです。ただ、そのときはご縁がなくて。そんな中で、去年の日本選手権前にたまたま立ち寄ったペットショップで、ぷりんがいたんですよ。でもその直後からそろって家を空けることが多くなったので、すぐには飼うことができなかったんですね。だから「日本選手権後にまだいたら飼おう」と話していたら・・・いたんです!! これは運命だと思って、すぐに家族に迎えました。

――ぷりんとの生活はどんな感じですか。
毎日のように「生まれてきてくれてありがとう」って伝えています(笑)。もともと夫婦で喧嘩はしないんですが、ぷりんのお世話で自然と役割分担し合うようになって、さらにいい関係になったと思います。ぷりんは日々の癒しで、なんなら・・・娘です。「なんでそんな毛深いん?」「どっから生まれてきたん?」って思うくらい(笑)。本当に愛おしい、かけがえのない存在です。
出会えた人たちへの感謝を胸に、国立の舞台へ
――仲のいい選手はいますか?
憧れでもあり、仲がいいのは400mHの宇都宮絵莉さんですね。長谷川体育施設の先輩で、去年競技を引退されました。出身も同じ兵庫県で、中学生の頃からずーっと可愛がっていただいてきました。
先日の平塚の試合にも応援に来てくれて。「お互いメダルをかけ合いたいね」とずっと話していたのですが、今年やっと叶えることができたんです。これまではかけてもらってばかりだったので、自分からかけられたときは感慨深かったですね。
中学生で日本一になってからも、挑戦を続ける絵莉さんの姿は、私の向上心を常に刺激してくれました。フィンランドのレース後にも電話をかけたんですが、泣いて喜んでくれて・・・。
絵莉さんも犬を飼っているので、ぷりんを連れてよく遊びに行きますし、毎年一緒にバーベキューもしています。夫婦ともども仲良くさせてもらっています!

欠くことのできない存在
――これまでに、いちばん影響を受けた人をあげるならどなたですか?
・・・母、ですね。私が陸上を始めた頃から、「悔いが残らないように、やりたいならとことんまでやりなさい」といつも言ってくれて。母は、たとえ私がどんな結果を出そうといつも褒めてくれるんです。決して競技に対して深入りはしないんですが、いつでも見守って、私の意見を尊重してくれる。陸上を「辞めたい」と思ったときも、母のそのときどきの言葉に背中を押されて。続ける道を選択できました。
だからこそ、ここまでたどり着けたのは母のおかげ。最大の感謝を込めて、影響を受けた人は『母』だと胸を張って言えます。

夢の舞台に立つ姿を見せられる
――素敵な方々が周りにたくさんいらっしゃいますね。いろいろなお話をありがとうございました。最後に、世界陸上を楽しみにしている方々へメッセージをお願いします。
時間はかかりましたが、30歳にして初めて日本代表になることができました。代表入りはもちろん嬉しいのですが、それ以上に、一緒に泣いて喜んでくれる家族や友人の姿に温かいものが込み上げてきました。ここに来るまで本当に回り道もしましたが、だからこそ出会えた人たちがいて、今の自分がある。そう思うと、これまでの道も辿らなければいけないものだったんだなって今は思うことができます。
世界陸上では、私をここまで連れてきてくれたたくさんの人たちへの感謝の気持ちを胸に、恩返しできる走りをしたい。そして私の走りを見て、「自分も諦めずに頑張ろう」と少しでも多くの方々に感じてもらえたら、これ以上の幸せはありません。
満員の国立競技場で最高のパフォーマンスを見せられるように。ぜひ会場で後押ししていただけたら嬉しいです。応援よろしくお願いします!
text by 開 洋美
photographs by 椋尾 詩